09:空覚え  空覚え。気づいたときにはそうなっていた。確かな記憶だった。思い出そ うと思えば目の前に広がっていた。だが、今は足下さえも思い出せない。あ んなに浴びた風もあんなにかいだ草のにおいもあんなに見ていた町並みも。 確かでない記憶になっていた。  はっきりと、はっきりと覚えていたのだ。目をつぶれば瞼の裏に広がった んだ、わたしのあの美しい町が。  何故だろう。何故、思い出せないんだ。まだまだそんなに日にちが経って いないのに。  もう少しでこの町をはなれる。だから、花にいっぱい草の町のことを話し たかった。だけど、空覚えになってしまった記憶からはたくさんのことは話 せなかった。  いったいどうしたんだろう。どうしたら思い出せるんだろう。わたしは頭 を悩ませた。 「そういうのってやっぱりあるんじゃないの。時間が経てばふっと思い出せ るわ」  花は笑ってそう言ってくれた。その笑顔を見たとき、胸が痛くなった。も っと花に草の町を知ってもらいたい。なのに、教える方が忘れてしまってい るなんて。  うなだれていると花がそっと肩に手をやった。わたしは顔を少しあげ、花 の表情を確認する。心配そうな顔。だけど、笑顔は残している。心配だけど、 心配してるのを気にかけないようにと努めて保つ笑顔。優しい子だな。わた しはそう思った。こんな子が虐められるなんて世の中よくわからない。 「周遊さん、ちょっとお散歩してきたらどう? わたしと一緒だとさっきみ たいにいざこざがあるでしょうから一人がいいかしら?」  花のその言葉により、わたしは一人、花の町をうろうろすることにした。 花からいくらかお金をいただき──いらないと遠慮したのだが、もしもの時 のためにと言われてけっこうな金額のお金を渡されてしまった──わたしは 家を出た。  花に案内をされたが、案内された所しか見ていない。きっと、花の町には たくさんの場所があるだろう。ステキな場所を探そう。草の町にもあったよ うに、花の町にもステキな場所があるだろう。  風が吹く。草の町の風はどこか冷たさがあったが、花の町の風はなんだか 温かみがある。目を閉じ、深呼吸をする。風がわたしの身体の中をつきぬけ ていくのが感じ取れた。透き通ったわたしの器に、温かみのある色の風がわ たしの器の中をかけめぐる。そんな感覚。  数歩歩く。花の家の敷地から出、道を歩く。角にさしかかった刹那、頭の 中に衝撃が走る。風がどっと吹く。  ああ、一つ、一つ思い出した。草の町の風を、思い出した。曖昧だった、 バラバラだったピースがまとまった、はっきりした。そうだ、草の町の風は 花の町の風と違う。冷たく、草の香りがする。そして、人が好きだというに おいがした。比喩でしか表現しようがない、かおり、温かさ。風は冷たいが、 その風にあたった心はとても温かになる。それが草の町の風だ。  ああ、思い出せた。思い出せた。ああ、そうだったのか。草の町の風はそ んな風だったのか。思い出したというよりも、そうだったのかと気づいたよ うな感じ。  わたしは自信がついた。このまま花の町を歩き続ければ、草の町のことを はっきり思い出せるはずだ。そして、今まで気づかなかった草の町のことに 気がつくはずだ。  角を曲がる。あ、ここは通っていない。ゆっくりと歩く。たくさんの家が 並んでいる。どれもかわいらしく、おしゃれな家だ。草の町の家は質素だっ たな。今まで見続けてきた草の町の景観が頭に浮かぶ。  しばらく歩くと公園にさしかかった。前、花と通った公園とは別の公園の ようだ。こちらの方がいくぶん華やかさにかけている。きっと花と通ったあ の公園は礼拝堂の前だけあって、凝ったつくりだったのだろう。わたしは公 園に入った。  花がキレイに植えられているている。赤色、黄色、ピンクに紫。白色にオ レンジに……大きな花、小さな花。種類大小様々な花が太陽にむかって花を 開いている。風がふくとゆたりと小首をかしげた。  赤レンガで花壇と普通の砂とわかれている。赤レンガの向こうの花壇の土 は黒く、湿り気がある。その場にしゃがみ、においをかぐと、土のにおいが した。草の町の土とは違うにおいだ。  立ち上がり、ぐるりとその場でまわる。広い公園だ。草の町にはこんなに 広い公園はない。  ブランコに近寄り、座る。地べたに足をつけたまま、身体を揺らす。キイ コキイコとブランコ独自の音がなる。風がふわりと吹く。仰ぐと木々の葉が サラサラと揺れていた。視線を戻す。ブランコの向こうには水飲み場がある。 ブランコをおり、かけよる。じゃぐちをひねり、水を出す。水が上にむかっ て噴きでる。くちをもっていき、飲む。冷たくて、おいしい。  じゃぐちをしめ、くちもとを拭う。  ここは人通りが少ない。だから、とても静かだ。なんだか落ち着く。花の 町はにぎやかな町だが、やはりこういうところは静かだ。  静かな静かな草の町。なつかしい。  わたしは公園を出、さらに歩いた。歩けば歩くほど、家の数は少なくなっ ていった。花の数はあいかわらず多かった。静かさはよりいっそう増してい った。しばらく歩いていると家がなくなった。またしばらく歩いた。道がな くなった。だが、花はたくさんある。まだまだ花の町の中だと思う。わたし は走ってみた。  小さな木の家を見つけた。木の家のすぐ横には大きな木がたっていた。お いしそうな真っ赤な実をつけている。走ってその家にかけよる。その家のま わりには小さな白い花がたくさん咲いている。踏みつぶされた後はほとんど ない。ここには人が住んでいないのだろうか。誰も訪れたりしないのだろう か。 わたしは家のドアをノックした。誰もでてこない。窓に近寄り、のぞいてみ た。汚れていてよく見えない。またドアの前に戻り、ドアノブをひねってみ る。鍵がかかっていて開かない。どうやら入れないようだ。  家に入るのを諦め、わたしは走った。しばらく走ると花畑にいきついた。 真っ白い花が一面に咲いている。わたしはそこへ向かって走り、とびこむ。 クシャリと花が折れ、花びらが舞い散る。仰向けに寝転がり、のびをする。  冷たい風が吹く。白い花びらが飛ぶ。そして、落ちる。花たちはコソコソ と内緒話をしている。目をつむる。深呼吸をする。透き通った風がくちに入 り、肺の中へ向かう。身体の中がスッキリする。  甘い、甘いかおり。花のにおいか。花のみつはこんな風な甘みがあるのだ ろうか。  あ。花のかおりの中に草のにおいもまじっている。草の町とはまた違った におい。  そうか。こうやっていたら草の町を鮮明に思い出せるのか。草の町は自然 豊かな美しく、静かでキレイな町だった。だから、こんな風に自然の中にい れば思い出すことができるのだ。  ああ、そうだったのか。わたしは目をつむり、しばしば白い花畑の中に身 をたくした。  美しい自然っていいですねー。